あるいたずら心

小学生の頃、フライパンで焼ける粘土というもので遊んだことがある。友達といっしょに、直径二、三センチほどの人の顔をたくさん作った。
作ってはみたものの、べつに使い道がない。どうしようかと相談した結果、「ご自由にお取り下さい」と書いて家の前に置いておくことに決まった。戸建て住宅だったので、家の前をけっこう人が通るのである。
そんなものがほしい人がいるとも思えなかったのだが、隠れて見ていると、それでも持っていく子どもが数人いた。私はなんだかとても嬉しかった。
これが、知っている人に「これあげるよ」だと「あ、ありがとう」という展開になるのは目に見えていて、なんだか面白くない。不特定多数が相手だというのが面白味の一つなのだろう。
SNS にしろ、ブログにしろ、ネット上にはその種の面白味が随分あると思う。「出会い」とか「人の役に立つ」とかいう決まり文句では片付けられない、いたずら心に通じる面白さだ。

普通の顔

幼稚園の頃、鏡を見て考えた。
「どうして自分は何の特徴もない普通の顔なのだろう? 目も、鼻も、口も、どこにも特徴がないではないか」
今から考えてみると、おかしくてたまらない。「普通の顔」の人などどこにもいないのに、どうしてそんなふうに思ったのだろう。当時の写真を見てみても、それはそれなりに特徴のある顔をしている。
簡単な話、すべてを自分を基準にするなら、自分の顔は普通の顔なのである。考えようによっては、「俺ってどうしてこう男前なんだろう」なんて言っているナルシストは、少なくとも自分の顔を基準にして世の中を見ていないという点で、「普通の顔」だった幼稚園児の私よりも謙虚なのかもしれない。
ただ、これを笑っていられるのは、事が顔のことだからである。これが政治思想ともなると、笑っているわけにはいきそうもない。「普通」はもって警戒せざるべからざるなり、というところだろう。

知識の運賃

どんな本にも自分の知らなかったことが書いてあり、それを知っておくことはけっして損でない。ところが、どんな本でも手当たり次第に役に立つというわけでもない。
その理由は、われわれの脳はかなり頑固者で必要なときにだけしか知識を受け付けないからだろう。だから、誰かに役に立つと言われて読んだ本は、たとえ、将来必要になる知識が書いてある場合でも、そして、それを読み通したとしても、ちっとも頭に入らないのである。
このことは、ずいぶん以前から気付いてはいた。そこで、この頑固者の門番に対抗すべく、詳細にノートをとったり、後で内容を思い出してみたりしてみたこともあるが、どうしても彼に勝つことはできなかった。ひどいときには、その本を読んだということすら忘れてしまうのである。
興味を持てば記憶に残るというが、興味を持つということはそうしようとしてできることではない。たしかに、自分が興味を持っていると思い込むことは可能かもしれないが、そういう嘘は、すぐに記憶の門番に見破られてしまうのだ。
一方、どんな詰まらない知識であっても、それが喜びとともに脳に迎えられたときには、ずっと覚えていることが多い。(ただし、この喜びは必ずしも「楽しい」ということではなく、完全な娯楽映画などの筋は記憶していることが難しい。)
そういうわけで、もし常に適切な時に、適切な知識を与えてやれば、その人は大変に賢くなるに違いないと思う。そうして届けられるならば、ごく小さな、一言であらわせるような知識に、100円ずつ払っても、損はない。ものによっては、1万円、10万円、100万円くらいまの価値がある。
知識そのものは、どこにでもあふれているものであっても、その時、その場で与えられるということの価値だと言っていいだろう。ちょうど缶飲料の中身の値段が数円程度であっても、喉のかわいたときには自動販売機で130円払うのと同じである。130円のうち、かなりの部分が運賃であっても、損をしたとは思わない。
良い本は、冷たい缶入りのジュースであるだけでなく、その中身を飲みたいと思う渇きもともに運んでくるような気がする。
一方、つまらない編集方針に基いて作られた本にも、この缶ジュースの中身がたっぷり詰まっている。そして、出版社は「これだけ飲めば、一夏ぶんのジュースを得ることができます」と言う。ところが、われわれは喉もかわいていないのに、それほど多量のジュースを一気に飲むことはできない。
もちろん、どの本が良い本なのかは、人によって随分違うし、ふつうはそれに出会うまでに随分下らない本を買い、時間を無駄にする破目になる。これがまあ、われわれが支払わなければならない知識の運賃なのだろう。

「モテる」ことと「彼女/彼氏がいる」ことについて

不思議に思いながら、疑問を口に出せぬことがある。
そうした疑問の一つが、「彼女/彼氏がほしいというのと、モテたいというのは別の事なんじゃないの?」ということだ。私の感覚からすると、モテるというのは、こちらから何のアプローチをしなくとも複数の異性に興味を示されることで、「向こうからアプローチしてくる」と「複数」という 2 つの条件が必要になる。
一方、彼女/彼氏というのは一度に複数付き合うというのは至難の業で(やったことないけど、たぶんそうだ)、向こうからアプローチしてこなくても構わない。
ただ、どっちのハードルが低いかというと、それは人によって違うわけで、モテるのだけれども彼女/彼氏というのが全然できないという人もいるし、全然モテないのだが彼氏/彼女がいるという人もいる。
ともかく、この 2 つのことは、まるで別のことなんではないか、と思うのだ。
だが、これはおそらくオッサン的発想なのだろう。オッサンはロマンチストであるから、「モテれば接触の機会が増えて、その結果彼氏/彼女ができる可能性が高くなる」などという算術がわからぬだけなのかもしれない。あるいは、今やモテるということが、たんに彼氏/彼女がいるということと同義になってしまっているのかもしれぬ。さらに、じつは事情は以前と変わっていないのだが、SNS の発達によって、私の観察にバイアスがかかってしまっているのかもしれない。
しかしまあ、こういう話題は場合によっては挑発的なものになるようなので、リアル世界で口に出すなんてことは、礼儀の面からいっても、自己防衛の面からいっても、絶対にできぬ。最悪セクハラになってしまう。またオッサンとしては、一組でも多くのカップルが生まれれば景気が良くてまことに嬉しいのであるが、そんなことも嫌味以外何物にも聞こえないという向きもあるだろうから、これもこっそり祈っておくにとどめるのである。

オッサンになると頭が固くなるか

一般には歳をとるほど頭が固くなると言われているようだ。
その典型的な例が、「若い人のやわらかい頭でいいアイディアを出してもらって」なんて決まり文句を平然と言うのがオッサンで、なるほど言っていることとやっていることに矛盾はない。
面白いのは、若い人々がこの種の「頭のやわらかさ」にさして価値を置いていないということを、オッサンたちが忘れているらしいということだ。
こうしたシーンでは、オッサンたちが言う「頭がやわらかい」というのは、「不足した資源を補うアイディアを出す能力」ということで、「若い人たち」はむしろそれを軽蔑する傾向にある。そして、しばしば「若い人たち」のほうが正しい(若い人が考える正攻法で責める体力は会社に残っていないかもしれないが)。
もっと一般的な「頭のやわらかさ」ということになると、少しばかり説明が難しい。他人のことはわからないから、自分のことを書く。
私は去年五十歳になったわけだが、「頭をやわらかく保つ」ということに憧れは持っていない。むしろ、さまざまな価値観を拾い食いし過ぎて混乱し、事態を収拾したいという思いがある。若い頃の思い込みから開放されたら、なんだか原野に立たされているということに気づくのが、私が思い描くオッサン像だ。
もっとも、だんだんオッサンたちもなかなかオッサンにして貰えない風潮があって、混乱もしなければ原野にも立たされない人も随分いるのかもしれないが、べつにそれが羨しいとも思わない。オッサンはオッサンらしく、原野に立たざるべからず(立たないということが可能ではない=立たなければならない)である。
そして、奇妙な観察力と、奇妙な喜びをもって、野原をはい回るのだ。それでいて、見かけだけはしっかり難しい顔をして取り澄ましているのがまたオッサンという生き物だ(出典:自分)。
このような奇妙な事態を、頭が軟らかいとか頭が固いとかいう比喩で表現するのは、困難なことではなかろうかと思う。

現代って言われても…

完全に現代人という人は、世の中に一人もいないと思う。
たとえば、いま大人として大人向けドラマを見ている人は、いまの子ども番組を子どもとしては見ることができない。当然のことだ。
私より若い人の中に、少しばかり前の時期に流行った嗜好を見つけると奇妙な気がするが、これは彼らの両親が私よりも年長であることを考えると、納得できるときがある。老若の違いを顛倒させるような形で過去が生きていることもあるわけだ。
また、読書は祖父母すら経験していないような昔を、読者に「現代」として経験させる。20世紀はじめに書かれた本を読んでいる人が、本を伏せてお茶を飲みながら「現代社会は」と言い出したら、それはもしかすると20世紀はじめのことかもしれない。
経済統計のような、客観的に「現在」であるようなものでさえ、その解釈についてはかなり個人の差というものがあるのが普通だ。
こう考えてみると「現代」というのは、各人にとっては過去の混合体という面が大きく、なかなかあやふやなところがある。しかし、それはそれでいいのであって、言葉を使う前に定義をハッキリさせよと言われたら、気楽なおしゃべりなど楽しめたものではない。

メンタル強い弱いって何ぞ

どのような人のことをメンタルが強いと言うのだろうかと(ついうっかり)考えた。
仕事や勉強ができても、べつにメンタルが強いとは言わない。どらかというと、守りの固さのような印象を受ける。メンタルという言葉も、メンタル・ヘルスを思わせるところがあり、どちらかというと精神を病まない力、のようなものなのだろう。
言い換えると、外部からのストレスによって心理的に損傷を受けやすい場合にメンタルが弱いと言われ、その反対がメンタルが強いということらしい。
ただし、メンタルの強い弱いというのを現実の人間に当て嵌めて考えてみると、やはりよくわからなくなる。ミケランジェロなどは、しばしば鬱状態に陥ったと言われるが、システィーナ礼拝堂の天井画などを見ても、まったく弱々しい印象を受けない。ヘミングウェイなども、似たようなものである。
けだし、かかる才人は通常の人が戦いを挑まないようなところにまで至らんとするのであるから、ストレスもまた強烈なものであったろう。それでいて二人とも社会性を諦めたりしないものだから、やっぱり本人はしんどかったに違いない。その点、エミリ・ディケンソンなんぞは社会性のほうをすっかり諦めてしまったので、いくらかは気が楽であっただろうか。
けだし、才人も凡人もどういう社会においてどういう生活をしているかによって病的な状況に陥る可能性がだいぶ違ってくるに違いない。
あまり好きな言葉ではないが、現代社会という言葉を使うならば、現代社会を特徴づけるある種の無神経さ(あるいは、その無神経さを糊塗するが如き甘言)、そういったものを所与の環境として受け入れたときに、ある人が社会性が失われるほど精神的ダメージを受けるか否かの原因を、もっぱらその人の持ち分に求めて、これをメンタルの強さ・弱さと呼んでいるような気がしないでもない。
そして、個別具体的に個人の置かれた状況を論じる前に、メンタルが強いとか弱いとかいう一次元的な軸ので割切りたくなること自体が、ある種の社会的無神経さの現れなのかもしれない。さらに言うと、メンタルの強い弱いを勝ち負けのように考える人たちは、そうした無神経さの犠牲者であるのかもしれない。