悲しさと涙について

悲しい、というのがどういう感情なのか、よくわからない。こんなことを言うと鬼のような人間と思われそうだが、まあ弁解はよしておく。自分でそうは思っていないだけで、本当はそうなのかもしれないから。

もちろん、何か不幸に見舞われたということを見聞きすると、たいへん同情心が湧く。人が死んだりしたとき「もう会えないと思うと、なんだかポッカリ穴があいたようだ」と言う人がいるが、この気持ちは、よくわかる。さらに、それによって生きる気力が失われるということだって、容易に想像がつく。鬱に陥ってしまう人など、他人事とは思えない。しかし、いずれも、大切なもの失われたときに、自分が受けるものは、乾いた不毛な灰色の感じなのである。

ところが、世間でいう悲しいということの表現が、涙に結びついている。自分の場合、乾いた不毛な感覚が、なぜか涙に結びつかない。

一方、自分が涙をなかなか出さないたちかといえば、そんなことはない。ドラマでも映画でも、すぐに泣いてしまうからどうも恰好がつかないほどだ。

では、ドラマや映画のどんな場面で涙がこぼれるのかと考えると、すぐに思いつくことが 2 つある。一つはハッピー・エンドであり、もう一つは自己犠牲である。単純なバッド・エンドなどは、たとえ主人公が大変かわいそうな死に方をしても、どう反応したらいいのかわからず、憮然としてしまう。

では、有名な例のアニメ、フランダースの犬の最後のシーンはどうかと言われたら、これは泣く。これは、天使が迎えに来たところで泣いてしまう。考えてみると、ネロのかわいそうな人生への愛情のこもった同情がそこに感じられるからではなかろうかと思う。

ハッピー・エンドにしろ、自己犠牲にしろ、ネロの昇天にしろ、結末において(少なくともドラマの結末において)昂った感情に、何らかの愛情が示されると、それが増幅されて涙となるように思える。

(もちろん、現実世界はドラマや映画の世界に負けず劣らず愛情とういものが存在する。そうしたものを経験し、あるいは、見聞きしたらどうかというと、これは微笑みであって涙ではない。)

さていったい、自分は冷たい心の持ち主なのであろうか。それとも、世間の人は私と違い、あの乾いた不毛な灰色を、いささかなりとも自らの涙で慰めうる能力を持っているのだろうか。もし後者であるとして、一般には、あの乾いた不毛な灰色を悲しいと呼ぶのであろうか、それとも、自らの涙によって空隙を埋めるときに生じる気分を悲しいというのであろうか。

(追記)
そういえば、子どもの頃は、何かを失ったことで泣くということが、よくあったということを思い出した。変だなあ