やる気とかいうもの

世の中には「やる気が出ない」と称される現象がある。

やったほうがいいし、期待もされているし、やってその成果を収めたいと思っているのだけれど、いまひとつ気が乗らない――こういう状態をきっと「やる気が出ない」と言うのだろう。仕事なんかだと、やる気が出ないというより「やりたくない」のであって、無理にでもやらされる時は「やる気が出ない」とはあまり言わない。もし無理にやらされるような場合に「やる気が出ない」と言うとすると、それを「いま」やることについて、「やる気が出ない」ということだ。私もしじゅうそれを経験している。

そして、やはりやる気が出ない王者は、なんといっても高校生だろうと思う。勉強という「やったほうがいいし、やることを期待しているし、やってその成果を収獲したい」対象について、なんとしばしば「やる気が出ない」ことだろうか。

「やる気が出ない」というとき、たぶん私たちは「やる気が出れば多かれ少なかれ成果が期待できる」と仮定している。「やる気を出せ」なんて激励するほうも、同じ仮定をしているのだろう。

だが、本当にそうなのだろうか?

たとえば、理解力の限界で教科書の内容がわからなくなっているとする。そうなると、勉強しても面白くない。面白くないことをやりたくないのは人情だ。ところが、こういうとき、「人間みな生得の能力は同じ」ということを前提にすると、勉強をやりたくない理由を別のところに求めなくてはならない。そこで「やる気」という架空の力が考案される。そんな道筋は考えられないだろうか。

考えようによっては、「人間みな生得の能力は同じなんだ」と思って頑張って「やる気」になろうとするのは、「人間の体重はみな同じだ」と言って体重計の上でふんばっているみたいなものかもしれない。

「やる気が出ない」のが辛いときには、一度自分の能力が限界に近いか、すでに越えているのかもしれないと疑ってみるのも悪くないように思う。べつに、能力の限界を認めることは、屈辱でもなんでもない。もちろんそこに一沫の悲哀を感じるであろうが、それが人生というもので、私にはそれがそんなに悪いものとは思えないのである。