現代って言われても…

完全に現代人という人は、世の中に一人もいないと思う。
たとえば、いま大人として大人向けドラマを見ている人は、いまの子ども番組を子どもとしては見ることができない。当然のことだ。
私より若い人の中に、少しばかり前の時期に流行った嗜好を見つけると奇妙な気がするが、これは彼らの両親が私よりも年長であることを考えると、納得できるときがある。老若の違いを顛倒させるような形で過去が生きていることもあるわけだ。
また、読書は祖父母すら経験していないような昔を、読者に「現代」として経験させる。20世紀はじめに書かれた本を読んでいる人が、本を伏せてお茶を飲みながら「現代社会は」と言い出したら、それはもしかすると20世紀はじめのことかもしれない。
経済統計のような、客観的に「現在」であるようなものでさえ、その解釈についてはかなり個人の差というものがあるのが普通だ。
こう考えてみると「現代」というのは、各人にとっては過去の混合体という面が大きく、なかなかあやふやなところがある。しかし、それはそれでいいのであって、言葉を使う前に定義をハッキリさせよと言われたら、気楽なおしゃべりなど楽しめたものではない。