知識の運賃

どんな本にも自分の知らなかったことが書いてあり、それを知っておくことはけっして損でない。ところが、どんな本でも手当たり次第に役に立つというわけでもない。
その理由は、われわれの脳はかなり頑固者で必要なときにだけしか知識を受け付けないからだろう。だから、誰かに役に立つと言われて読んだ本は、たとえ、将来必要になる知識が書いてある場合でも、そして、それを読み通したとしても、ちっとも頭に入らないのである。
このことは、ずいぶん以前から気付いてはいた。そこで、この頑固者の門番に対抗すべく、詳細にノートをとったり、後で内容を思い出してみたりしてみたこともあるが、どうしても彼に勝つことはできなかった。ひどいときには、その本を読んだということすら忘れてしまうのである。
興味を持てば記憶に残るというが、興味を持つということはそうしようとしてできることではない。たしかに、自分が興味を持っていると思い込むことは可能かもしれないが、そういう嘘は、すぐに記憶の門番に見破られてしまうのだ。
一方、どんな詰まらない知識であっても、それが喜びとともに脳に迎えられたときには、ずっと覚えていることが多い。(ただし、この喜びは必ずしも「楽しい」ということではなく、完全な娯楽映画などの筋は記憶していることが難しい。)
そういうわけで、もし常に適切な時に、適切な知識を与えてやれば、その人は大変に賢くなるに違いないと思う。そうして届けられるならば、ごく小さな、一言であらわせるような知識に、100円ずつ払っても、損はない。ものによっては、1万円、10万円、100万円くらいまの価値がある。
知識そのものは、どこにでもあふれているものであっても、その時、その場で与えられるということの価値だと言っていいだろう。ちょうど缶飲料の中身の値段が数円程度であっても、喉のかわいたときには自動販売機で130円払うのと同じである。130円のうち、かなりの部分が運賃であっても、損をしたとは思わない。
良い本は、冷たい缶入りのジュースであるだけでなく、その中身を飲みたいと思う渇きもともに運んでくるような気がする。
一方、つまらない編集方針に基いて作られた本にも、この缶ジュースの中身がたっぷり詰まっている。そして、出版社は「これだけ飲めば、一夏ぶんのジュースを得ることができます」と言う。ところが、われわれは喉もかわいていないのに、それほど多量のジュースを一気に飲むことはできない。
もちろん、どの本が良い本なのかは、人によって随分違うし、ふつうはそれに出会うまでに随分下らない本を買い、時間を無駄にする破目になる。これがまあ、われわれが支払わなければならない知識の運賃なのだろう。