恥ずかしいことを思い出して「あーっ」と叫びたくなる

突然脈絡もなく過去の恥ずかしいことを思い出して「あーっ」と叫びたくなることがある。中学生の時分はこれがずいぶんあったもので、電車の吊り皮につかまっている時などが、じつに魔の時だった。
勘違いをして恥をかいたことから、人間関係でカッコの悪かったこと、果ては下手な創作に至るまでその種は尽きることがない。
正直なことを言うと、オッサンになった今でも、頻度こそ低下するものの「あーっ」と叫びそうになることがある。昔「アーッ」と叫んだことは風化してどうでもよくなろうとも、人生は恥の連続であるからして、新たな「アーッ」の種が撒かれるのである。
しかしまあ考えてみると、これは自分が見栄張りだからなんだろう。
その証拠に、思い出すたびに「あーっ」となんていた作品なんかでも、ふとした機会に人に評価されると、以後思い出しても「あーっ」とならなくなる。また、こっそり人知れず始末した作品なんぞに「アーッ」となることはない。人間関係についてだって、異性に告白したことを思い出して「アーッ」となるのは、ふられたときだけだ。うまくいったときのことなんかは、思いしてもほくほくしている。
なかには、他人に迷惑をかけたとか、ひとの気持ちを傷つけたなどという「嗚呼」と嘆ぜらずべからざるものもあって、まさに反省すべきことではあるが、そういう事ですら「アーッ」の一声とともに思い出すときには、相手のことなんかは考えてなくて、眼中にあるのは自分の失点という一面ばかりである。
だが、まあだからといって「あーっ」と叫ぶくらいの見栄はそう悪いものでもないし、波風のない毎日のちょっとしたアクセントみたいなものだろう。心の中で「アーッ」と叫んだあと、「おれって見栄っ張りよのう」と澄ましているのが理想である。
経験から言うと、後で「アーッ」と言わないようにと知恵を張り巡らしても、あまり面白いことは起こらない。「アーッ」というのが見栄から起こるならば、「アーッ」と言わないようにと考えるのもまた見栄であって、見栄に縛られているときは決して面白いことなんかできないということかもしれない。