余はいかにして数学で零点を取りしか

私は算数はできたのです。ところが、数学になると、零点を一度ならず頂戴するという始末になりました。どうしてそんなことになったのでしょう? 怠けていたからとか、頭が悪かったからとか言っても仕方がないでしょう。
そういうことはすべて認めた上で、どうして怠けたくなるほど数学がつまらなくなってしまったのか、どう数学に接した結果、頭が悪いと表現する以外に仕方がないほど数学が理解できなくなったのか、そのあたりの事情を思い起こしてみようと思います。

「太郎さんは、いくらかお金を持っていました。お母さんに100円もらったので、持っているお金は300円になりました。太郎さんは最初いくら持っていたでしょう」

小学校の頃を思い出してみて下さい。この問題を考えるとき、だれでも太郎さんの気持ちになってみるのではないでしょうか。100円もらったら300円になったのだから、100円もらう前は300円より100円だけ少ないお金を持っていたはずです。そこで、300-100=200 で、200円という答えになります。みなさんは、太郎さんの世界に入っていって、この問題を見事解決できるわけです。
こうした問題を解くとき、多くの小学生も足すとか引くとかいうことがどういうことなのかを実感しているのではないかと思います。
私もそうでした。そして、この実感こそが算数の大事なところだと信じていました。算数を理解するということは、まさにこの実感を得ることであり、そういう接し方以外は機械的に問題のパターンとそれに対する解法を覚えているのと同じことで、好ましくないことだと思っていました。

前の問題は太郎さんが登場しましたが、これを花子さんにしても、同じように解くことができます。また、100円というのが100ドルになっても、まったく同じ問題だと感じられます。
さらに、問題の骨組みのところだけを表すと □+100=300 という虫食い算になるでしょう。100を足したら300になったのなら、300から100を引けば、□の中に入れるべき答えが求められます。私はこういう虫食い算も、太郎さんが登場する場合と同じように実感を持って解くことができました。その手の抽象化能力はあったのです。
学年が上がって割合や比の勉強に入ると、足し算や引き算よりは難しくはなりましたが、私は実感を持てたと思えるまで勉強しました。それができるようになったときは、この世の中のより複雑な事に対して実感を持てるようになったことをうれしく思いました。

そして、それが私の学校における算数・数学勉強史の絶頂でした。この時、すでに暗い影が心の底に忍び込んでいたのですが、もちろん私はそれに気づいていませんでした。

さて、私の数学勉強史が暗転を始める前に、ここでちょっと実感ということについて考えておきます。
私たちはまわりの人の気持ちを考えて生活しなくてはなりません。いくら立派な理屈を言ったところで、実感の伴わない理屈では空回りするだけでしょう。音楽を聴くときにも、心で感じるからこそ感動するわけです。音楽理論を頭でわかっていても、ハートでわからなければ意味がありません。何より大事なのは実感であり、理屈というものも自分の心で実感できてこそ価値があると、私たちはさまざまな場面で教えられるのです。勉強だってそうに違いない、と小学生の私が思ったのは、当然のことだったように思えます。

さて、中学校に入学すると、算数は数学という名前になりました。名前は変わりましたが、やっぱり数学でも実感ということが大事ということには変わりがないだろうと、私は思いました。負の数というものを習ったときには、貯金が正の数とすると借金は負の数、標高が正の数なら、水深は負の数、というように想像力を働かせました。x+100=300 のような方程式も、虫食い算のようなもので、答えを求めるときに小学生と同じような実感を持つことができました。

私が最初につまずいたのは、因数分解でした。
たとえば (x+1)(x-1)=x²-1のような式の展開には意味を感じることができました。そこには高いところにある物が、低いところに転がっていくような自然さを感じることができたのです。1+2=3 という計算をして答えを出すのと同じような必然性があると思えました。でも、因数分解にどんな意味があるというのでしょう? そもそも、x²-1 を (x+1)(x-1) なんて難しい形に書き直すなんて、不自然なことではないでしょうか?
いくら考えてみても、この世の中には因数分解によって表現されるべき事柄が見つからないのです。現実世界に対応する事がないのですから、因数分解を足し算や引き算と同じように実感することはできません。これは私を苦しめました。
苦しんだといっても、本当にウンウンうなっていたというわけではありません。自覚症状としては、「何となくしっくりいかない」という気持ちが残ったという程度です。ところが、この「しっくりいかない」感じは、かなり悪い結果をもたらしました。因数分解の練習を十分にやる意欲がなくなり、試験の結果は残念なものでした。

気持ちの素直な人や、勤勉な人は、多少「しっくりいかない」ところがあっても、きっとたくさん因数分解の練習をしたと思います。ところが、私は実感することが何より本質的なことだと思っていたし、それを確信している自分が他の人より賢いのだとうぬぼれていましたから、「とにかくいい点数を取りたい」とか「勉強が進めば何か見えてくるだろう」というような、現実的で賢い考え方をすることができませんでした。
あるいは、私にもっと洒落っ気があったならば、パズルを解くような感覚で気楽に勉強することもできたかもしれません。ところが困ったことに、私は変に思いつめて先に進めなくなるようなところがあって、数学をパズルとして楽しむような余裕もなかったのです。
先生の教え方が悪いとか、数学というものは邪悪だとか、そこまでは考えませんでしたが、ただ数学というものがつまらない嫌なものになっていったのです。

今から考えてみると、当時私が考えていた「実感」というのはじつに曖昧なものです。小学生の時だって、いつもいつもそれを持っていたわけではないのです。□×(1/2)=4 という虫食い算を 4÷(1/2)=8 として解いていいのは何故かということについては、□−100=300 や □x2=8 を解くときほどには、実感を持って理解できなかったはずです。ところが、何度も同じような問題を解いているうちに、当たり前に「実感」をもって正しいと思えるようになったわけです。

私たちが実感という言葉を使うとき、それが指している内容はじつにさまざまで、その人、その時によって変わってきます。たとえば、刑法や刑事訴訟法に詳しい人が裁判を傍聴したのと、法律のことについて何も知らないで裁判を傍聴をしたのとでは、かなり実感のあり方に違いがあるでしょう。知識が増えると、実感する内容だけでなく、実感というものがどういうものかということも、変わってくるのです。

もし、小学生の私が算数の足し算引き算について感じていたような実感だけが唯一の実感で、それ以外の感覚を実感と呼んではいけないのだとしたら、実感を得たいという欲望を捨てなければ、数学どころか算数すらも理解できないのではないかと思います。
またもし、実感というものが、常に私たちが感じていなければならない感覚であるとするならば、その実感というのは勉強が進むについれて、常に変化して成長していくものでなくてはならないと、思います。
おそらく、私たちはおおらかに成長した「実感」によってしか、数学の論理的な面に親しみを覚えることはできないのです。そして、親しみを覚えないことは、読んでも聞いても頭の中を素通りしていってしまいます。

話しを戻しますと、中学生の私は因数分解に習熟もしないうちに「実感を得られない」と見切ってしまったので、実感を成長させるチャンスを自分で潰してしまったのではないかと考えています。中学生の私は因数分解の問題をもっとたくさん解いたならば、もしかすると私は、「実感」の性質をもっと豊かでおおらかなものに成長させるキッカケをつかんだかもしれません。その先に、因数分解によってどうして方程式を解けるのか、そういう理屈の面白さを感じる道が開けたかもしれないのです。

自分は実感というのが何であるのか知っている、そしてまさにその実感こそが数学に大事であると知っている、そういう傲慢な考えをを中学生の私が持っていたというのは、素直な人には想像できないことでしょう。きっと、その傲慢さは道徳的な欠点と映るよりも、むしろ私の頭の悪さと映ったに違いないと思います。頭が悪いのが先なのか、傲慢な考えにとりつかれたのが先なのかは、わかりません。もしかすると、ときにその二つは同じことを指すのかもしれません。

私がその思い上がった考えから救われたのは、いつだったでしょう。それは、じつに四十代の後半になってからのことです。数学とは縁がない生活をしていた私は、ふとしかきっかけで高校の数学を勉強し始めたのです。そして、三年ほどかけて、高校の数学を勉強しました。そして、ああ数学というのはこういうものだったのかと驚いたのです。

今回はずいぶんぼんやりとした話を書いてしまいましたが、いずれ中学高校の数学の個々のテーマについて、私が中学・高校の頃に持っていた奇妙な思い込みを記してみたいと思います。