足元に必要な何か

昔、工場でアルバイトをしたときのことだ。
ベルトコンベアーに乗ってやってくる商品をどうこうするという作業で、それはとても単調だった。私は体だけ動かしながら、退屈しのぎに周囲を観察していた。そしてベルトコンベアーの脇で作業をしている一人の男に目をとめた。
彼は足元に雑誌を置いていた。コンクリートの床の上である。
表紙を見ると、その雑誌は日本軍の軍艦の特集を載せているようだった。ラインが稼働しているときには読む暇がないから、小故障が起こって(小さなトラブルのことで、ベルトコンベアが停まりベルが鳴る)、問題が解決するまでの数分間に読むのだろう。
雑誌の内容は、いまはどうでもいい。私の印象に残ったのは、彼が単調な作業に耐えるために文字を必要としているということだった。何か文化と呼べるものの、ごく素朴な姿でそこにあるように思えた。
山崎豊子に「ムッシュ・クラタ」という短かい作品がある。従軍記者のクラタは伊達男で、キザと言って差し支えない。どんなに苛酷な状況にあっても、オシャレを忘れない。嫌われるだろうと思いきや、周囲の人間はだんだん彼を必要と感じるようになるのである。
単調だったり苛酷だったりその両方だったり、そういう環境において、われわれはごく素朴な形で文化的なものに対する憧れを抱くことがあるのかもしれない。それが学問的である必要もないし、芸術的である必要もない。ペダンチックであるかどうかも、問題ではない。文字そのものが文化だったり、糊の利いたシャツが文化だったりしてもいい。そこに、われわれが生きるのに必要な何かがあるのだと言ったなら、想像力を働かせ過ぎだろうか。