原始時代のイメージ

われわれは原始時代のイメージに、自分の考えのなにがしかを投影するように思う。
子どもたちや楽天家のスポーツマンは、原始時代に気楽な狩猟生活を見出し、何とはなしの親しみを抱くようだ。
社会の進展・進歩という面に興味のある人たちの中には、原始時代を身分や所有という概念がない憧れの世界と感じる人がある。
力と力のぶつかり合いの現実性に信頼を置く人にとっては、戦闘の敗者を待ち受けた苛酷な運命が旧石器時代の大事な一面である。
一方私はと言えば、歯切れのいいことは言えそうもない。
たとえば、原始時代の墓に花が供えられていたという発掘成果はしばしば、彼らがすでに愛惜の情を知っていたという文脈で引き合いに出される。しかし、考えてみればそう驚く話でもないだろう。むしろ、愛惜についてわれわれ現代人が原始人よりもより豊かになっていると信じるほうが不自然なように思う。そして、そういう情感は、戦闘における敗者を待ち受ける苛酷な運命と、何ら矛盾するものではないだろう。さらに、身分や所有の概念の有無は、そららの行為が存在することとは、無関係のことのように思える。もちろん、狩猟生活をしていた人々が、狩猟そのものに何ら喜びを感じていなかったとは、想像しにくい。
原始時代の印象を整理するなどということはまるでできないのだ。
そして、これもきっと「原始時代のイメージに、自分の考えのなにがしかを投影」した結果なのだろう。