なぜ勉強をしなくてはならないのか、ということ

中学生の頃から考えていて、今でもわからないことの一つが、なぜ勉強をしなくてはならないのかということだ。
中学生高校生の頃、この問題を口にすると、親には怒られるし、友達には笑われたものだ。それでも、自分が親というものになってみると、やはりまたこの問題を考えてしまう。

思うに、「〜べきだ」という結論は、何か他の「〜べきだ」からしか導くことはできない。
「親の言うことは聞くべきだ」というのは、最も簡単な「勉強すべきだ」を導き出すルートだが、そもそもこの疑問を抱く人は「親の言うことは聞くべきだ」を認めないだろう。
「社会の役に立つべきだ」から「勉強すべきだ」を導くことは、一応可能であるが、「社会の役に立つべきだ」なんて考えている中学生は、今時ちょっと探すのが大変だ。

さて、「べきだ」軍が全滅しかけたところで、ちょっと疑問が生まれる。
「オリンピック選手になりたいなら、運動部に入るべきだ」流の理屈はどうだろうか、ということだ。
つまり、「〜したい」から「〜べきだ」を導けないか、という疑問である。

ところが、これはうまくいかない。たとえば、「オリンピック選手になるべきだ」から「運動部に入るべきだ」は導けるが、「オリンピック選手になりたい」からは「運動部に入るべきだ」を導くことはできない。「〜したい」から「〜べきだ」を導くためには、「やりたいことを実現すべきだ」ということを認めることが必須になる。ところがこれを広く認めると、犯罪をやりたい人は犯罪をするべきだという、とんでもないことにもなりかねない。

どうやら、親が「勉強すべきだ」ということを理屈によって導きたいのなら、その元になる「べきだ」を子どもと共有できているかどうか、そこを一度自問しなくてはならないらしい。