男は中年になるとスケベになるの真偽

男は中年になるとスケベな者が増えると一般に信じられている。
そんな馬鹿な話はないのであって、スケベな者は一生スケベであり、それほどでもない者は一生それほどでもないに違いない。
であるからして、問題の設定の仕方は、どうして中年になるとスケベになるかではなく、どうして中年を過ぎるとスケベと言われるようになるのかという点にこそある。
自分のことを振り返って言うならば、――自分がスケベなほうかどうかは当面さておくことにして――たしかにスケベと言われても仕方のない特徴を獲得していることは認めなければならない。それは、まさしく観察眼の向上に他ならない。
観察眼といっても、べつだん女性の本心を見抜くなどという野暮な観察眼のことではない。そんなものがついてしまったら面白くもなんともない。そうではなくて、もっぱら美術的な観察眼のことである。
自分が若い頃はまず女性の顔しか見なかったといっていい。もちろん、ハダカを見たいとは思うわけであるが、それはハダカという抽象的なものであって、実際に骨があり、筋肉があり、脂肪があり、表皮があるという具体的なものではない。ところが、中年になるや、抽象性が薄れて具体的な観察対象になるのである。
大変紳士的な男性も、やはりこの観察眼を身につけているということは、ほとんど間違いがないことであろうと想像する。
たしかに、観察されるほうはたまったものではない。目がいやらしいと言われるのも、まことにもっともであって、いやらしくなるのはハートではなくて目なのである。
ただ、一歩すすんで言うならば、それは植物をよく観察するようになるのと全く同じで、画家としての力量が上がったくらいに本人は感じているのだ。いや、失礼な話であるのは重々承知。しかしながら、画家の目には醜いものはないというのもまた真実である。中年男は、この観察眼の進化をもって、美人の範疇を圧倒的に拡張しているのだ。ほとんどすべての女性を賛美しているといってもよい。(ごめん、ちょっと言い過ぎだ)。
もちろん、勝手に賛美するなと言われればそれまでであるから、なんとも言い訳のしようがない。
なお、セクハラ問題や、いわゆる男女共同参画も問題については、まったく別の話であり、まったく別の基準を用意しなくてはならない。