賢い人って何が違うんぞという話(2)

なんか、微妙にタイトル違った気がする。というか、このエントリーどういう文体で書いていたっけ。
夏休み明けに、「こいつにはどんな口利いてたっけ」ってわからなくなる感じ。あっ、思い出した。
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前の前くらいのエントリーで、頭のいい人ってのは、ともかく先入観に囚われないなんてことを羨しがったわけではありますが、じつはそういう人たちを見ていて、もう一つ気づくわけであります。
とにかく、彼ら/彼女らは、時間を無駄にしない。無駄にしないこと鬼のごたるであります。
だいたい私なんぞは、ちょっと暇があると、ぼうっとしている。何か有益に使っている時間てのが、ぶどうパンの干しぶどうの部分くらいです。ところが、頭のいいお人は、ほぼすべてが干しぶどうでできている。もうこれはぶどうパンではない。パンがない。すなわちノーパンであります。
こんなことを言うと、それは努力によるもんじゃよと言われそうなんでありますが、努力でできる分量とできない分量がある。そもそも才能と努力というのは拮抗する概念ではなくて、内側から見たら努力、外側から見たら才能てくらいな差で、努力か才能かなんて論じるのは、リバーシブルの上着のどちらが表かを争うようなもの……という話はおいておいて、とにかくノーパンの人は頭がいい。
ことに、前回申しました一つ目の要件つまり、先入観に囚われないというやつと、ノーパンが併さると、これはもう手に負えない。この手に負えなさ加減はどの程度かというと、大学入試なんてものでは測り得ないだろうと思うのであります。人物に変換すると、孔明くらい。ぎゃくに言うと、第一の要件か第二の要件かどちらかを満たしていれば、東京帝国大学に入学くらいはできるもののようで、これがまあ、徐庶くらい。どちらかが半分くらいできると、呉用くらいでありまして……だんだん何を言っているのかわからなくなってまいりました。
まあこれが私の見立てでありますが、本当のところはじつはわからない。賢人を知るのは賢人のみでありますから、わからないのには何の不思議もない。ただ、私はそう考えて、むやみに羨しがらないようにしているというだけの話であります。