頭のいい人について考える (1)

どうも頭のいい人ってのは、これが、いるもんで。こういう人は頭の中がどうなっているのだろうなんて、私のような、さほど上等な頭を持っていない人間は考えるわけであります。
別に卑下をしてこう言っているわけじゃあありません。私だって、それなりに努力ということを知っている。ところが、努力をそれなりにしてみたところで、矢つ張りどうも出来ぬということがたくさんある。まあ、客観的に見て、頭脳を使う方面で私ができぬことを出来ている人を、ひとまず頭がいいと考えて置くのがフェアだろうと思うんです。
で、頭がいい人ってのは、何が違うのか。その第一は、先入観に囚われないことであろうと思います。
私は小学校で、面積というのは正方形の面積が定義されていて、他の図形の面積をすべてそこに帰着させて考えていたわけです。小学生というのは、おおよそそんなもんでしょう。で、困ったことに、高校生になって積分というものを習っても、その先入観が抜けないでいた。面積というものが再定義されるなんてことは夢にも思わなかったわけです(噂によると、大学ではその積分も再定義されるそうであります)。
勉強が進むと、これまで習ったことがガラガラポンてなっちゃう。私はそれについていけなかった。なんだか風向きが変わったということを柔軟に知ることができなかった。
何かの本で、刀鍛冶だかなんだかが明治維新のときに「まさか武士の魂である刀が捨たれるなんてことはないだろう」と思ったという話を読んだことがありますが、あれなんぞは時世に疎いから頑固になっちゃうんじゃなくて、頑固だから時世についていけなかった人なのかもしれない。ちょっとこの話は別の事だったかもしれませんが、なんだかとても親近感を持ってしまうわけです。
私のことに話を戻しますと、何かのキッカケで、じつはこういうことだったのかと、一種感動を持って悟ったとしましても、頭のいい人に話してみると「だから何?」というごく冷静な反応なわけでして、ああこの人はここでは苦労しなかったんだな、とわかる。そういう人はもっと先の難所で感動を覚える日が来るのでありましょう。
そういえば、馬鹿の一つ覚えなんていう言葉がありますが、一つ覚えというものはむしろ馬鹿を定義する言葉なのかもしれない。ともかく、頭のいい人ってのは、柔軟なモンだと感心することが度々あるわけであります。(つづく)