ことわざ嫌い

子どもの頃、父親に何かねだると、決まり文句のように金がないと言われたものだ。そのとき父親は必ずといっていいほど「ない袖は振れぬ」と不機嫌につけ加えるのだった。ない袖が振れないのは当たり前ではないか。かかる当たり前のことを口にするのは、当たり前ならざる気持ちが込められているのである。けだし「黙れ」。爾来、このことわざが嫌いになった。
ことわざというのは反対の意味を持つものがたくさんある。だからそれを引用する者は、一般に自分の意見を十分間違えようのないほど明確にした上で、ことわざをつけ加えることをする。あるいは、ことわざを前置きしてから、懇々と説明する。
好意的に見ると、ことわざを引用することによって、同じような判断が賢明であるような類似の事案を想起させるという利点があるかもしれない。あるいは、そうした事案が人の心の中に、ぼんやりとした形で沈んでいるところに明りを当てるという効果が期待できるのかもしれない。
いずれにしても、ことわざの使用者と聞き手に共通の記憶――それがどんなに曖昧なものであっても――存在することを前提にしている。ハイカラな言葉で言うと、ハイコンテクストなのである。
ことわざを使用すると、場合によっては、自分の文脈を相手にも求めているような印象を与えるのはこのためではなかろうか。
今考えてみれば、オモチャをねだられて「ない袖を振れぬ」と言った父親のバックグラウンドもわかりはする。しかし、やはり自分はそんなときにこのことわざを使いたいとは思わない。三つ子の魂百までである。