英語の辞書の用例が過去形ばかりなること

人間というのはどうも分類が好きな生き物らしい。人を性格によって分類したり、音楽にジャンルを設けて分類したり、学問を文系と理系に分類したりする。
そして、ひとたび分類の基準ができてしまうと、各カテゴリーが横並びになっているという幻想が作り出されて、かえって混乱が生じることがある。
学校で教わる英語の時制なんてものその一例だろう。
時間を過去・現在・未来に分類するのは、現代生活の上で便利でもあり、責めるべきことではないが、その 3 つがそれぞれに英文の時制を所有して――つまり、過去時制・現在時制・未来時制――それぞれが魏呉蜀の如く鼎立していると考えるに至ると、とたんに不便が生じる。※
実際「鼎立なんかしているものか」という人がいて、こういう人は、未来時制なんてものは存在しないと言う。未来時制と呼ばれる文の動詞や助動詞は明らかに現在形なのだから、それは現在時制であるというのだ。この説明に則ると、英語は(助動詞の力なんかを時折借りつつ)現在時制によって(辛うじて)未来を表現する、ということになる。※※
なんだか、蜀が魏に滅ぼされてしまったような体だ。
では、魏と呉とは対等に横並びしているのかというと、これもそんなことはない。その証拠に、字引の適当なページを開いてみると、用例は過去時制の文ほうが現在時制の文よりずっと多い。
この過去形優位は何の故ぞ、と問うに、「過去は長い時間の幅を持っているのに、現在というのは今この瞬間だけじゃん」というところにありそうだ。
たとえば、電話がかかってきて「今何してた?」と言われ、I eat an apple. と言うと不自然だという。これは、現在は一瞬しかないのに、その一瞬でリンゴを食べられるはずがないからだろう。I'm eating an apple. とかなんとか言って、進行形を使い、一瞬しかない時間の幅を少し広げてやらないと、リンゴは食えないという道理だ。
その点、過去は時間に幅があるから、I ate an apple. は全然OK。字引の用例は無闇に進行形など使いたくないだろうから、勢い過去時制の文ばかりになる。
そんなわけで、三国鼎立していたように見える過去時制・現在時制・未来時制も、とうてい単純に並列しているものではないということが見えてくる。
――という話はただの一例であって、ちょっと油断していると、分類というやつは我々の知性に牙をむいてくるのだから、まったく気が抜けない。

(※18世紀にイギリスで出版された英文法の本を見ても、時制には 3 つあると書いてあるから、時制を 3 つに分けるのは新しい考え方ではないらしい。)

(※※たとえばラテン語の動詞には未来形という活用形があるから、これはすべての言語に当てはまるというわけではない)。