えーと

私は中学生の頃、人生の意義とか、勉強をする意味などしばしば悩んだものだ。そして、両親のそれに対する意見はいつも同じで、そういうことで悩むのは目の前にあるやるべき事から逃れようとしているのだということだった。そこで私は一体現実逃避というものの性質をまた考え始めるという具合だった。他の大人に尋ねたこともあったと思うがよく覚えていない。おそらく一般の大人たちの私への評価は、「難儀な性格」ということだったように思う。

とにかく、私はそうこうするうちに、そうした悩み事にはどうやら大人も答えることができないのだということに気付いた。そして、同年代の友達の意見を聴取して回ることにした。もちろん、迷惑がられるのは百も承知だったが、どうしても知りたかったのである。

彼らの意見のうち、二つばかりよく覚えているものがある。一つは、「今もアフリカでは食べ物に事欠いている人たちがたくさんいるのに、どうしてそんなことを悩むのか」というものだった。そう答えたときの彼は、いささか私に苛立っているように見えた。今から考えると、それは彼が以前誰かから言われて傷付いたセリフだったのかもしれない。

もう一つは、ずっと後になってからもらった意見だが、それは次のようなものだった。「世間がピアニストに期待するのは、ピアノの演奏であって、鍵盤を叩くことだ。ところが、舞台に上がったピアニストが、ピアノの中を開けて、いきなり手でピアノ線を叩き出したらどうか? 君の質問は、それに似たことだ」というものだった。こちらは、やはり迷惑がっていることは明白だったが、それでも暖かみのこもった回答のように感じた。そう感じたのは、彼がピアノの中に手を突っ込む演奏者をそう毛嫌いしているわけではないと知っていたからなのだろう。

そして今や私は五十歳になってしまった。そろそろ、昔の自分にそうした問題について答えなければならないような気がしている。少なくとも、「彼」に中間報告をするべき年齢になっていると思うのである。さて、どうしたものか。

正直なところ、私が年々強く感じるようになっているのは、言葉の無力さである。感動的なドラマや真剣な映画から、あるいは、真摯な著者が書いた本からいくらでも、人生の意義その他の問題について、それらしい言葉を拾うことはできる。それにもかかわらず、そうした言葉が胸に届くのは、それを受け入れる用意ができているときに限られる。今の私が、今の自分の信念に基いて何か伝えようとしても、中学生の私に伝えることは到底不可能だろう。

それでも、中学生の自分に何か言わなくてはならないとしたら、何を言うだろうか。「えーと……」と言って、言葉に詰まる。この宿題、ちょっと待ってもらうほかはない。

やる気とかいうもの

世の中には「やる気が出ない」と称される現象がある。

やったほうがいいし、期待もされているし、やってその成果を収めたいと思っているのだけれど、いまひとつ気が乗らない――こういう状態をきっと「やる気が出ない」と言うのだろう。仕事なんかだと、やる気が出ないというより「やりたくない」のであって、無理にでもやらされる時は「やる気が出ない」とはあまり言わない。もし無理にやらされるような場合に「やる気が出ない」と言うとすると、それを「いま」やることについて、「やる気が出ない」ということだ。私もしじゅうそれを経験している。

そして、やはりやる気が出ない王者は、なんといっても高校生だろうと思う。勉強という「やったほうがいいし、やることを期待しているし、やってその成果を収獲したい」対象について、なんとしばしば「やる気が出ない」ことだろうか。

「やる気が出ない」というとき、たぶん私たちは「やる気が出れば多かれ少なかれ成果が期待できる」と仮定している。「やる気を出せ」なんて激励するほうも、同じ仮定をしているのだろう。

だが、本当にそうなのだろうか?

たとえば、理解力の限界で教科書の内容がわからなくなっているとする。そうなると、勉強しても面白くない。面白くないことをやりたくないのは人情だ。ところが、こういうとき、「人間みな生得の能力は同じ」ということを前提にすると、勉強をやりたくない理由を別のところに求めなくてはならない。そこで「やる気」という架空の力が考案される。そんな道筋は考えられないだろうか。

考えようによっては、「人間みな生得の能力は同じなんだ」と思って頑張って「やる気」になろうとするのは、「人間の体重はみな同じだ」と言って体重計の上でふんばっているみたいなものかもしれない。

「やる気が出ない」のが辛いときには、一度自分の能力が限界に近いか、すでに越えているのかもしれないと疑ってみるのも悪くないように思う。べつに、能力の限界を認めることは、屈辱でもなんでもない。もちろんそこに一沫の悲哀を感じるであろうが、それが人生というもので、私にはそれがそんなに悪いものとは思えないのである。

悲しさと涙について

悲しい、というのがどういう感情なのか、よくわからない。こんなことを言うと鬼のような人間と思われそうだが、まあ弁解はよしておく。自分でそうは思っていないだけで、本当はそうなのかもしれないから。

もちろん、何か不幸に見舞われたということを見聞きすると、たいへん同情心が湧く。人が死んだりしたとき「もう会えないと思うと、なんだかポッカリ穴があいたようだ」と言う人がいるが、この気持ちは、よくわかる。さらに、それによって生きる気力が失われるということだって、容易に想像がつく。鬱に陥ってしまう人など、他人事とは思えない。しかし、いずれも、大切なもの失われたときに、自分が受けるものは、乾いた不毛な灰色の感じなのである。

ところが、世間でいう悲しいということの表現が、涙に結びついている。自分の場合、乾いた不毛な感覚が、なぜか涙に結びつかない。

一方、自分が涙をなかなか出さないたちかといえば、そんなことはない。ドラマでも映画でも、すぐに泣いてしまうからどうも恰好がつかないほどだ。

では、ドラマや映画のどんな場面で涙がこぼれるのかと考えると、すぐに思いつくことが 2 つある。一つはハッピー・エンドであり、もう一つは自己犠牲である。単純なバッド・エンドなどは、たとえ主人公が大変かわいそうな死に方をしても、どう反応したらいいのかわからず、憮然としてしまう。

では、有名な例のアニメ、フランダースの犬の最後のシーンはどうかと言われたら、これは泣く。これは、天使が迎えに来たところで泣いてしまう。考えてみると、ネロのかわいそうな人生への愛情のこもった同情がそこに感じられるからではなかろうかと思う。

ハッピー・エンドにしろ、自己犠牲にしろ、ネロの昇天にしろ、結末において(少なくともドラマの結末において)昂った感情に、何らかの愛情が示されると、それが増幅されて涙となるように思える。

(もちろん、現実世界はドラマや映画の世界に負けず劣らず愛情とういものが存在する。そうしたものを経験し、あるいは、見聞きしたらどうかというと、これは微笑みであって涙ではない。)

さていったい、自分は冷たい心の持ち主なのであろうか。それとも、世間の人は私と違い、あの乾いた不毛な灰色を、いささかなりとも自らの涙で慰めうる能力を持っているのだろうか。もし後者であるとして、一般には、あの乾いた不毛な灰色を悲しいと呼ぶのであろうか、それとも、自らの涙によって空隙を埋めるときに生じる気分を悲しいというのであろうか。

(追記)
そういえば、子どもの頃は、何かを失ったことで泣くということが、よくあったということを思い出した。変だなあ

キラキラネーム

相変らず、いわゆるキラキラネームは元気で、劇的に減ったりはしていないようだ。
「あんな名前をつけるなんて理解できない」という人もいるが、理解しがたいものを理解しようとしてみるのは悪いこどではあるまい。
キラキラネームの隆盛の前にも流行の名前というのはあって、古いところでは昭和初期あたりの一文字名前の男子とか、その後も長く続いた女子の名に子をつけるなどというのも流行だったと聞く。もう少し新しいところでは、萠とか美咲とかいう名前をずいぶん見掛けたもので、あれも流行だったわけである。
してみると、キラキラネームを理解する上で大事な点はどこにあるのだろう。
「読めない」ということを言う人はたしかに多い。しかし、その理由は漢字で自然に表現できる音がそう多くないということの結果に過ぎないように思える。
むしろ、キラキラネームの大事な点は、同世代の人の名前に同じものが少ないこと、なのではないだろうか。
人と名前が違うことに人生を輝かせる何かを感じるどうかか、ここにポイントがあるような気がする。
そう考えてみると、古来より人は子どもの名前にさまざまな思いを込めてきたのだから、あくまでその一環と考えることもあながち不自然とは言えないだろう。
もしそう考えても溜飲が下がらないなら、「謙虚な生き方こそ真に輝かしいものであるゆえ、キラキラネームの人はその名に恥じぬ謙虚な人生を全うされたし」と、心の中で唱えるのが、精神衛生によろしいだろうと思う。

箸的な何か

箸というのは、慣れるまでに時間がかかるが、一度慣れてしまえば至極便利なものだ。一方スプーンとフォークは使うのが簡単だが(マナーをきちんとこなそうと思うと相当たいへんだけど)、使い慣れたからといって目覚しく用途が広がるわけではない。
他にも、簡単な道具を使うことに習熟すると、複雑な道具よりも便利だというケースが色々ある。
コーヒーを煎れるのに、コーヒーメーカーを使うよりは、ペーパーフィルターのほうが簡潔で煎れ方の調整もできる。ヒゲを剃るのも、カミソリを使ったほうが電動のヒゲ剃りを使うよりもきれいに剃れる。自動車も、オートマよりマニュアル車のほうがエンジンの回転数と車輪の回転数を自在にあやつって複雑なことが可能だ。コンピュータにしても、真っ黒い画面(あるいはウィンドウ)にコマンドを打ち込んで使っている人を見かけるが、話によるとあれは慣れると至極便利なものだそうだ(ただし、OS によるとか)。
そうした箸的なものの極北は、じつは外国語ではないかと思ったりする。習熟におそろしく時間と手間がかかる反面、翻訳を待つ必要がないし、原語のテキストのほうが圧倒的に安価だったりする。そして、そう考えてみると英語の勉強なども、肩肘張らずにできるような気がしてくる。
もっとも、私の英語がいつまで経っても英語が上達しないのは、肩にも肘にも力が入っていないせいなのかもしれない。

ゴッサム

ゴッサムというと、バットマンの活躍する町であるが、辞書(ODE)を引いてみると 2 通り載っていた。
一つはニューヨークの別称ということで、バットマンの話はこのへんから名前を取ったようだ。元々は、アメリカの作家ワシントン・アーヴィングがつけたあだ名だという。
もう一つのゴッサムは、イギリスのノッテンガムにある実在の町である。この町は、「ゴッサムの賢人」などの民話に登場することで有名だ。
この話は、王の不興を買ったゴッサムの住人たちが、町の「賢人」の発案によって揃って馬鹿の真似をし、王命により取調べに来た役人に「全員馬鹿だから仕方がない」と思わしめ、難を逃れたというもの。
馬鹿の真似の一例を挙げるならば――ドアを背負いて歩く男あれば、役人呼び止めてそのわけを問うに、男答えて曰く、「家に金を置いて旅に出るゆえ、盗人にドアをこじ開けられ金を盗まれるを防ぐゆえなり」と。
このイギリスのゴッサムが、ニューヨークのあだ名に結びついていくのかどうかは、調べていないのでわからない。

なぜ勉強をしなくてはならないのか、ということ

中学生の頃から考えていて、今でもわからないことの一つが、なぜ勉強をしなくてはならないのかということだ。
中学生高校生の頃、この問題を口にすると、親には怒られるし、友達には笑われたものだ。それでも、自分が親というものになってみると、やはりまたこの問題を考えてしまう。

思うに、「〜べきだ」という結論は、何か他の「〜べきだ」からしか導くことはできない。
「親の言うことは聞くべきだ」というのは、最も簡単な「勉強すべきだ」を導き出すルートだが、そもそもこの疑問を抱く人は「親の言うことは聞くべきだ」を認めないだろう。
「社会の役に立つべきだ」から「勉強すべきだ」を導くことは、一応可能であるが、「社会の役に立つべきだ」なんて考えている中学生は、今時ちょっと探すのが大変だ。

さて、「べきだ」軍が全滅しかけたところで、ちょっと疑問が生まれる。
「オリンピック選手になりたいなら、運動部に入るべきだ」流の理屈はどうだろうか、ということだ。
つまり、「〜したい」から「〜べきだ」を導けないか、という疑問である。

ところが、これはうまくいかない。たとえば、「オリンピック選手になるべきだ」から「運動部に入るべきだ」は導けるが、「オリンピック選手になりたい」からは「運動部に入るべきだ」を導くことはできない。「〜したい」から「〜べきだ」を導くためには、「やりたいことを実現すべきだ」ということを認めることが必須になる。ところがこれを広く認めると、犯罪をやりたい人は犯罪をするべきだという、とんでもないことにもなりかねない。

どうやら、親が「勉強すべきだ」ということを理屈によって導きたいのなら、その元になる「べきだ」を子どもと共有できているかどうか、そこを一度自問しなくてはならないらしい。